JNF1 Matsumoto Seich™
証明
一
久美子はこのところつづけて次号雑誌の取材で下調べをしていた。特集は「芸術に見る性」というのだった。雑誌は夫人知識層を対照しているが、近頃の傾向のことで、だんだんにエロチックなものに内容が傾いている。それを知性の薄紙に包んでいる。編集方系針を批判しても仕方のないことだし、また久美子にはその発言力がなかった。彼女は正式な社員ではなく、編集部との契約で取材したり記事を書く仕事だった。結婚前まで、別な夫人雑誌につとめていた経験で、五年前からこの仕事をはじめた。
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だが、
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どういうわけか信夫は
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だが、
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しかし、それは信夫に何の利益ももたらさなかった。
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久美子は、信夫のそうした気炎とも愚痴ともつなぬ話を、ずいぶん、以前から聴かされた。
二
信夫は荒れてきたのはここ一、二年来だが、とくに近頃はひどくなった。
※
おれは自殺するときは、あの穴の中を死場所にする。おれの姿が二日でもなくなったら、あの横穴を探すがいい。信夫はそんなことを冗談ともつかずいって、久美子を脅かした。
三
五月二十三日の夜七時から九時まで久美子は週材のことで洋画家の森山憙一と赤坂のレストランで会った。
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久美子はその日メモに、
《二十三日。É午後七時から九時。[É]A氏ほか[É]と[É]夕食》
と書いた。[É]
※
その夜おそく久美子は娼婦のような気持ちで夫を床に誘った。
四
二週間を過ごしたが信夫の書直しは完成しなかった。今度は希望が見えているだけに——一方、いつもの不安は絶えず彼に付きまとっていたが——その希望に強いて光を託していた。それだけになかなか慎重だった。この一本にすべてを賭けているようだった。これまでにないことだが、二、三行を直すのに五時間ぐらいかかった。
それに全精神を打ちこんでいるせいか、久実子に荒れることはなかった。部屋に閉じこもったままである。二百枚の原稿に手を入れるのは容易なことではなかった。彼は妻の前に出てもぼんやりとして気の抜けた顔をしているか、文章のことが気になって仕方がないように遠くを見るような眼で思案しているかした。久実子が戻っても外での行動などまるで無関心で、何も訊こうとはしなかった。
※
É他人に笑われる話である。
♯
彼女が考えついたのは、平井忠二に会って事情を打ちあけ、諒解を求めることだった。夫が面倒を起こす前に平井に許しを乞えば、いくらかでも危機が抑えられそうである。抑えきれなくても軽くはなると思った。
恥を忍ぶほかはなかった。どうせ守山嘉一には恥を打ち明けていることだった。
だが、懸念は平井がそのことを快く承知してくれるかどうかである。仏文学者で随筆家の平井忠二は学者肌の男で、純粋な性格の持主と思われる。守山画伯のようにものわかりにいい粋人とはよほど違うと考えなければならぬ。そんな問題でぼくの名前を利用されては困る、と苦り切って横をむきそうだった。激怒を買うことも予想された。
いくらかためらったが、予想される破局の怯えが彼女を動かした。覚悟を決めて平井忠二の家に電話した。
五
約束して平井と会ったのは、その日の夕方だった。ちょうどAホテルに人を訪ねるから、その前にロビーで会おうといってくれた。平井は久美子の話を聞くまで仕事の上のことだとばかり思っていたようである。
※
「おい、今度のやつがパスしなかったら、おれは死ぬぞ。生きていたってつまらんからな」
É
「じゃ、あなた、四十まで生きててよ。あと三年ね。今度の小説が、たとえ雑誌に出なくても、キリよく、四十まで生きて、もう少しやってみるのよ。四十ちょうどになったら、死んでもいいわ」
Éしかし、つぎに夫の危険がはじまっている。
会社に出るとÉ
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平井忠二とホテルのロビーであってから一週間目だった。
六
どうしてそのようなことになったのだろうか____。
その後の一年半の怪過を思い出しても久美子は自分が他人のような気がして、よく分からなかった。過失というには、そのあともあまりに平井忠二との間に深入りしすぎた。
「鬼が差した」という昔からいいならされた言葉の方にむしろ実感があった。
※
帰りには風呂敷包みを抱えていた。
信夫の死体は五日後に、横穴を探検に来た近所の少年に発見された。
♯É
久美子は、四日前の晩に夫の信夫がいなくなったままずっと家に帰っていないので、明日あたり警察に捜索願いを出すつもりでいたと述べた。
♯
検査は中止された。
そうだ、あの婦人記者だった、と彼はうなずいた。二年前の今ごろ、そうだ、五月二十三日の夜É食事を共にした女だった。五月二十三日という日附がどうして印象にあるかといえば、かねて念願のバーのマダムと寝た晩だったからだ。それから、また何日か経って、その婦人記者と銀座の通りで行き遇った。そのとき彼女は真顔で、先生とレストランで会った先夜のことは内緒にしてくれと頼んだ。亭主の悋気がひどいのだと際し、いいよ、と呑み込んだものだった。画家はこの殺人事件に慄然となり、彼女の亭主に殺されずに済んだ自分をひそかに祝福した。
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それから一ヵ月くらい径って、森山は訪ねてきた編集者から、高木久美子が山陰のほうで自殺したという噂話を聞いた。彼はもう一度「絵画における性」のモチーフの話に熱心に耳を傾けてメモしていた、どこか疲れたような感じの、しかし、魅力のある女の顔を浮かべた。出入りの雑誌編集者が来た。彼女の亭主というのは、遂に酬われることのなかった同人雑誌作家でした。いい線まで行ってて期待されていたんですがね、ああいうことになるとは分からないものです、とその編集者は画家に話して紅茶の残りを飲んだ。