特集

日本語論

 

左脳と右脳の日本語論

                                               

 

 

中山 正和

 

 

音声というのはどこまでが「イメージ」であり、どこからが「言語」であるかはよく分からないのが本当ではないかと思います。普通、人間ではイメージは右脳(大脳新皮質の右半球)に、言語は左脳に記憶されているといいますから、自動車の音、犬の吠声は右脳に入るはずです。しかし、現実にブーブー、ワンワンという音が聞こえれば自動的に自動車や犬のイメジを思い浮かべますから、この音声は一種の言語になっているといっていいでしょう。これはいわゆる動物言語といわれるものになります。つまり、トリ、ケモノが仲間に危険を知らせたりエサの有かを知らせたりするときの鳴き声みたいなものです。

ところが、人間というのは、たまたま発声器官が精巧にできていて、一つ一つのイメージを区別して音声で表現できるようになりました。そうなると、その言葉の記憶は今までのような平面的配列では追い付かなくなります。たとえば、イメージにはいろんな花があるだろうが、それは一括して「ハナという言葉にまとめられるでしょうし、赤い屋根や赤いトマトがあればそれらから「赤いという共通点を抽出します。

そうなると、言葉というものは、いままでの(イメージの)記憶皮質に対応したもう一つの皮質に移した方がいい。立体構成にして、言葉はいろんなイメージにいつでもつなぎ変えることができるようにするわけです。そして、このために左脳が使われた、というのが進化の過程だと思います。

そこで、前に述べたように、どこまでをイメージとし、どこからを言語とするかが検定されなくてはならないわけですが、ここからが非常に微妙なところで、たとえば大人どうしの対話では自動車のことをブーブーとはいいませんが相手が子供だったら「ブーブー」は立派な言語です。言葉は「時と場合」によるのです。

角田忠信氏は、こういう日常の、生き生きとした状態での言葉について、どういう音声が言葉として左脳に登録されるか、ということを、独特の方法によって調べ、その登録の仕方が日本人(他にはポリネジア人) と外国人とは全く違うことを発見しました。すなわち、日本人では、子音、母音をはじめ、感情音(泣、笑、嘆、甘)ハミング、鳴き声(動物、虫、鳥)、自然の音(小川のせせらぎ、風、雨、波の音)、それに邦楽の楽器音、などまでが左脳で処理され、右脳では、西洋楽器音、機械音、雑音などが処理されているにすぎないが、外国人では、これらの音のうち左脳で処理されているのは、子音を含む音筋だけであって、西洋楽器音、機械音、雑音、その他前記のいろいろな音はすべて右脳で処理されてしまう、という、驚くべき事実です。 角田氏は、これは遺伝的なものではなく、とくに幼児期に日本語で育てられたか外国語で育てられたかによってきまるといわれていますから、日本語を話すとか日本語で考えるということは外国語を使うのとは根本的に違うことになります。たとえば、自然音は外国人には雑音と同じように聞こえるかもしれませんが、日本人には「自然が語りかけている」ことになる。「古池や 蛙とびこむ 水の音」。ポチャン!外国人なら「それがどうした」というだけのことでしょうが、日本人にはこのポチャン!は言葉なのですから、過去のイメージの記憶からたくさんのイメージを拾いだしてくれます。それは各人それぞれに違うイメージでしょうが、そのイメージの集積がそれぞれの人の情感を盛り上げることになるのです。

また、日本楽器の音が左脳で、西洋音楽は右脳で処理されるというのは如何にも不思議です。しかし、こういう邦楽は日本人が作ったのですから、それに使われる楽器も、日本人がその音と「語り合える」ように作られているのではないかと考えられます。はじめから、それらの音は、泣き、笑い、嘆き、甘えるように設計されていたということです。外国人は一般に琴、三味線、尺八の音楽はsad musicといって楽しい感情は起こさないようです。たとえ御神学でも。

日本人が、外国人が左脳で処理している音声までを右脳で受け止めていることに対して、日本人は左脳を酷使しているとか、右脳が空いているという説がありますが、これは間違いだと思います。右脳のイメージの容量は左脳に比べては桁違いに大きいことが最近わかってきました。ですから、右脳の一部を言葉系(左脳)に移すということはむしろ進歩であるといえないことはないと、私は思います。左脳でいろんな音声を処理するということは、それだけイメージ探素の範囲が広がることですから、日本人が直観力に優れているという事実もこんなところに原因を持っているのかも知れません。

(なかやままさかず・創造工学)