(日本語教育 62 号)

 

 

複合助詞について

 

砂川 有里子

1987. 3. 2 )

 

 

要 旨

複数の語が結合して助詞と同じような動きをもつようになった形式(〜からには、〜によって、〜とともに、など)を、複合助詞とよぶ。その構成要素の意味・構文的機能は、複合助詞化が進むにつれてさまざまな変容を被るが、構成要素がもっていた機能が完全に失われてしまうわけではなく、どの複合助詞も、多かれ少なかれ、助詞とは異なった意・味構文的なふるまいかたをする。

本稿は、意味と構文の面から複合助詞を検討し、助詞との相異を明らかにすることを通して、複合助詞の特性を深ろうとする試みである。

【キーワード】複合助詞、構成要素、実質的意味、文法的カテゴリー

 

 

1. 複合助詞とは何か

複合助詞とは、複数の語が結び合わさって、全体として1語の助詞に準ずる機能を果たす要になった連語のことである)。たとえば、つぎの用例の下線部のだくいを、ここでは複合助詞と呼ぶことにする。

(1)      一枚は夫が講座取[1]引のある銀行のカードで、ファミリー会員として友梨も作っている。(紅42ペ)

(2)      小説教室の受講生だけであって、左知子の話ぶりはしっかりしていて、多少理屈っぽかった。(紅199ペ)

(3) ことばであれ、動作であれ、それがひき起こされるときには、そこになんらかの形で状況的な分派が背景として働いているといわれる。(ことば34ペ)

複合助詞は、語構成からみて、大きく次の二つに分けることができる。

(a)      動詞や名詞など、実質的意味を持つ語が、その実質意味を失い、形態的に固定化して助詞と同じような機能を果たすようになったもの

(b)    複数の助詞が結合して1語の助詞相当になったもの

用例(1)(3)(a)の例である。(b)の例として次のようなものが考えられる。

(4)   やると決めたからには最後までやり通す。

(5)    これからの活躍が期待されていただけに残念だ。

永野1953は「からには」の意味を、「特に理由を提示して、課題の場を設定し、次に来る陳述を強く期待させる場合に使われる」と説明しているが、この「話し手の期待」という陳述性の強い意味は、個々の構成要素をバラバラにしては表しえない。「から」と「に」と「は」がひとつに結合して初めて表しうる意味である。このように、複数の助詞によって構成された複合助詞は、「単なる構成要素のプラス以上の意味」を持っており、そのことによって全体がひとつの単位としての結合を得ているのである

ところで、「ので」や「にて」のようなものも、そもそもは複数の助詞が結合してできたものである。しかしこれは1語の助詞として扱われるのが普通で、複合助詞とは認定されない。それは、これらの結合がきわめて強いものであり、言語使用者の意識としてもこれら2語に分割するには抵抗があるからである。そもそもは[2]複合助詞であったのだろうが、すでに1語の助詞となっていると考えられるわけである。それに対して、複合助詞は、1語の助詞相当の機能を果たしているとはいえ、そ[3]の結合が相対的に弱く、言語使用者の意識としてももとの構成要素に分割を詳しうるようなものである。しかしそれはあくまで相対的なものであって、助詞と複合助詞との間に明確な線を引けるようなものではない。

このように助詞と複合助詞が連続的につながっていくものであることは、後に触れるように、動詞起源、名詞起源の複合助詞についてもいえることである。

もうひとつ、(b)の複合助詞を扱う際に問題となる形式がある。それは、助詞が単に承接しただけの、つぎのようなものである。

(6)    北陸では豪雪に悩まされている。

(7)    あなたにだけ教えてあげる。

上例の下線が表わす意味は、「で」と「は」、「に」と「だけ」などの、個個の構成要素が担っている意味の、単純な加算に過ぎない。したがってこれらは複数の助詞の承接したものとして扱うべきであろうが、「小型トラックでも運べる」のようなものはどう扱うべきか、など、問題が残るところである。

以上述べたように、複合助詞は、もとの語の実質的意味が希薄化してできた(a)のようなグループと、実質的な意味をもたない助詞が、構成の単純な加算以上の意味を表わすようになった(b)のようなグループの2種に分けられるわけである。

 

2. 複合助詞の特性

本稿では昌頭において、複合助詞を、1語の助詞に準ずる機能を果たすものと規定したのであるが、厳密に言えば必ずしもそうでない場合がある。なかでも動詞や名詞から派生した形式は、多かれ少なかれ、もとの動詞や名詞の名残を留めており、意味や構文の側面で助詞とは異なった働きをすることがある。助詞というものがありながら複合助詞を使用することの理由、つまりは複合助詞の存在理由が、この異なりの側面に求められると言えるように思う。

そこで、以下においては動詞や名詞から派生した複合助詞に着目し、助詞との異なりの側面を考察する中で、複合助詞の複合助詞たるゆえんといったものを探ってみることにしたい。

複合助詞の考察に先立って、まずは助詞の特徴を挙げておくことにしよう。助詞は、(1)自らは実質的な意味を持たず、実質語の後に来て初めてその意味を発揮し、(2)単独で文の成分とならず、実質語の後に来て、それとともに初めて文の成分としての機能を果たすものであり、また、(3)活用がないという点で助動詞と区別されるものである。しかし、動詞や名詞から派生した複合助詞は、その結合化の度合に応じて、(1)(3)とは異なった側面を見せる場合が観察される。以下、意味と構文の観点から、これらの複合助詞を考察してみることにしたい。

《意味》

動詞起源や名詞起源の複合助詞は、もとの語の持つ実質的な意味を失い、関係構成的な意味を表わすようになっている。たとえば高橋 1983a は、この点に関してつぎのような例を挙げている。

(8) 結婚に関して、両親とのあいだにひんぱんな書簡の往復があった。

(9)    かようにしてあらゆる文化について、娯楽的な対しかたというものができた。

⑽ ÉÉこのホーキ星の分裂をめぐって、またも二つの見解がたいりつしたことÉÉ(以上高橋1983a, 20ペ)

これらはたがいに入れ換えても意味に大差はない。高橋はこれを、「転成前の動詞ら(「関する」「つく」「めぐる」)の意味はかなり異なるが、関係的な意味は、いずれも課目しめしであって、おなじグループに属している」ためであると論じている。つまり、それぞれの動詞が本来持っていたそれぞれに特有の実質的意味が薄れ、個々の表わす意味の差が縮まって、似たような関係構成的な意味を表わすように変容しているのである。

しかし、もとの意味が完全に失われたわけではないことは、こ[4]れらの複合助詞の間になおかつ微妙な意味の差が認められること、またそのために上記のような言い換えがきかない場合もあることによってわかる。そして、このような実質的な意味の失われかた(あるいは残りかた)は、個々の複合助詞によって異なっている。たとえば、次の⑾は⑿や⒀のように言い換えることができるが、それらの間には、 ⑻〜⑽に認められる意味の差とりもかなり明確な相異が認められる。

        ......そしてそれがどのような発連的書諸条件の形成をまって可能なのかが、魅力あるテーマとして登場してきたわけである。(ことば11ペ)

     どのような発連的書諸条件の形成によって可能なのかが,......

     どのような発連的書諸条件の形成を通じて可能なのかが,......

「まって」は「その条件が成立しなければ可能とはならない」という意味を含意しているが、「よって」や「通じて」にはその意味はない。その代わりに、「よって」には「その条件の成立が基盤となって」、「通じて」には「その条件の成立の過程で」という、それぞれに固有の意味がある。これらの固有の意味は、「まつ」「よる」「通じる」の個々の動詞がそもそも持っていた実質的意味を、いまだに失い切っていないところから来るものである。

実質的な意味の名残は、助詞があいまいにしか表わせない関係的な意味を、より明確な形で表わすのに貢献する。たとえば、「友達告げ口された」という文は、友達が告げ口したのか、だれかが友達に告げ口したのか、この文を見る限りでは定かでない。しかし、「友達によって告げ口された」「友達に対して告げ口された」のように、複合助詞を使うことによって、関係構成的な意味が明確に表示できるようになる。

もとの語の持つ実質的意味は、さらにまた、助詞によっては表わしえない関係を表わすのにも貢献する。たとえば、

        このように、「わかる」とか「わかりやすい」ということどれだけ結び付くかが、今日の最先端のコンピュータ科学がかかえている大きな課題であり、はっきりと自覚して、その実現へ向けて開発を進めていかねばならぬ目標なのである。(コンピュータ25ぺ)

という文において、下線部の「へ向けて」は、向かっていく方向を表示していると言える。ちょうど助詞の「へ」と同じような意味を表わしているわけであるが、⒁の下線部を「へ」に換えると、次のように詳容できない文になってしまう。

     *その実現開発を進めていかねばならぬ目標なのである。

つまり、「開発を進める」という動詞は、「実現」という名詞を、「進み行く先」としては取りえないのである。しかし、⒁で見たように「へ向けて」という複合助詞を介すればそれが可能になる。

以前筆者は、受身文の動作主が「に」を取ったり「によって」を取ったりすることに着目し、通常は動作主を明示しない受身文や、動作主と動作が「動作のよりどころ一動作」というような間接的で弱い関係で結ばれている受身文に「によって」が使われることに指摘した。そしてその理由を「によって」の関係構成力の強さに求めたのであったが、上に見たような現象も「によって」「に対して」「へ向けて」などの関係構成力の強さに求められるように思う。あいまいな関係、あるいは格助詞によって結び付けられないような結び付きの[5]弱い関係にある二者をことさらに関係づけるような動きが、上に挙げたような複合助詞に[6]認めることができるのである。

《構文》

複合助詞は、助詞と同じように、単独では文の成分とならず、実質語の後にきて、それとともに初めて文の成分となる。一方、動詞と名詞は単独で文の成分となりうる語、いわゆる自立語である。動詞や名詞が複合助詞化するには、自立語から付属語への変化をたどるのであり、そのために、本来持っていた構文的な機能の多くが失われる。

まず、名詞の場合から見ていくことにしよう。名詞は助詞を従えて、後属の述語と種々の格関係を結ぶことができる。しかし、複合助詞化した名詞は、ごく限れた特定の格にしか立ちえない。また単独で文の成分とはならず、必ず連体修飾を受けるか、実質語ないしは実質的な意味を表わす句に格助詞を従えた形式に続かなければならない。次の⒃は連体修飾を受けた例、⒄と⒅は格助詞の「と」に後接している例である。

      さんざん苦労したあげくに獲得したことは、そのような「式」だけで計算できることであった。(コンピュータ126ぺ)

    ことばの発連過程への関心は、時代とともに強まってきた。(ことば11ぺ)

        子どもは学校に入るとともに、生活のいちじるしい変化を余儀なくされる。(ことば28ぺ)

さらにまた、名詞は指定辞「だ」を従えて文の述語になるが、複合助詞化が進んだ形式は、述語の立置に立ちにくくなってくる。

     *ことばの発連過程への関心が強まってきたのは時代とともだ

     ?獲得したのはさんざん苦労したあげくだった。

ところで、これらの複合助詞化した名詞は、形式名詞との区別が問題となってくる。その区別は、格助詞を後接してさまざまな関係を作ることができるか否か、また、指定辞を従えて述語の位置に立つことができるか否か、というところに一応は求められるが、実際には、自由に格関係を結べるものと特定の格にしか立てないものとの間に、中間的な性格を持った多くの形式名詞が存在しており、どこからが複合助詞であるというべきかその明確な基準は立てがたい。たとえば、つぎの(21)  

かた

「方」は典型的な形式名詞であり、さまざまなタイプの用語とかなり自由に格関係

を結ぶことができるし、文の述語の位置に立つこともできる。

(21)    a      あのが山田さんです。

         b      あのに知らせよう。

         c      あのを推薦します。

         d      山田さんがあのです。

しかし、つぎのようなものは、取りうる格が限定され、中には述語の位置に立てないものもある。個々の形式によって、制約の度合にかなりの幅があることが見て取れるが、これらのうちでは、「たびに」と「もとに」が最も形式化の度合が進んでいるということができる。

(22)    a      若いうちに好きなことをやる。

         b      若いうちが花だ。

         c      *若いうちを思い出す。

         d      昌険をするなら若いうちだ。

(23)    a      来るたびに変わっている。

         b      *来るたびが面白い。

         c      *来るたびを覚えている。

         d      *変わっているのは来るたびだ。

(24)    a      友達といっしょに出掛けていった。

         b      友達といっしょがいい。

         c      ?友達といっしょを好む。

         d      いつも友達といっしょだ。

(25)    a      友達とともに出掛けていった。

         b      *友達とともがいい。

         c      *友達とともを好む。

         d      *いつも友達とともだ。

これらのどれを複合助詞と言い、どれを形式名詞を言うべきかを決めるのは困難である。その基準を設定するには、形態の固定化の強さや、共起する述語の度合を確かめるなどの、さまざまなテストをしてみる泌要がある

つぎに動詞が複合助詞化する様子を見てみることにしたい。

動詞は自らの持つ実質的意味に応じて、特定の意味を持った名詞との間に、一定の数の格関係を結ぶものである。たとえば「向ける」という動詞は「〜が[7]」「〜を」「〜に」の3の格を取る。しかし、動詞が複合助詞化してくると格関係が大きく制限され、ごく限れた、特定の格しか取れなくなる。

(26)            ことに、ここ十年余、乳児のことば格得の様相の解明に向けて異様とさえ思える動力が集中されてきている。(ことば11ぺ)

この文の「向ける」は、「〜が」格と「〜を」格が取れなくなって、「〜に」格のみと結び付いている。このような格の制限、中でも特に、「〜が」格、すなわち主格が取れなくなるということはすべての複合助詞に見られる共通の制約である。つまり、複合助詞は、ヴォイスのカテゴリーを失っていると言えるわけである。したがって、当然のことながら、受け身や使役の形式も自由に取ることができなくなっている。

しかしヴォイスのカテゴリーが完全に失われているかといえば、そうとは言えないような例も観察される。

(27)    お帰りは、通路に向かって前進のお車から先に出てください。(紅171ぺ)

この下線部を「向けて」という自動詞に変えるとかなり不自然な文になってしまう。

(28)    ?お帰りは、通路に向けて前進のお車から先に出てください。

「ドアに向かって右手」とは言えても「ドアに向けて右手」とは言えないというのなども同じことである。ここでは自動詞と他動詞の対立が残っており、ヴォイスの名残が見られるわけである。一方、「実現に向けて開発を進める」というような場合は、「実現に向かって開発を進める」と言い変えることができる。こちらのほうは、ヴォイスのカテゴリーを失っており、いっそう形式化の進んだものであると言える。

 

 

Sub-section 1 in macro-section 3

3. 複合助詞の種類

助詞が各助詞、接続助詞などに分類されるように、複合助詞も格助詞的なもの、接続助詞的なものなどに分けられる。これらをここでは「複合格助詞」「複合接続助詞」などと読んでおくことにする。

助詞が相互に承接するときに一定の規則があることは知られているが、複合助詞と助詞の相互承接場合も、やはりこの規則に従わなければならない。すなわち、(1)各助詞と複合各助詞が重ねて用いられることがなく、(2)系助詞が複合各助詞と重ねて用いられる場合には、必ず複合各助詞の後に来る。たとえば、次の(36)は各助詞と複合各助詞が重ねられており、文として成り立たなくなっている例、(37)は複合助詞の後に、系助詞が重ねられている例である9)

(36)       留学生がとして日本に来た。

      (37)       今度は多数の捜査員を投入して、より広範囲に行った結果、朋江に関                    しても、少しずつ耳寄りな情報が集められた。(紅188ペ)

また、複合接続助詞が系助詞とともに用いられることがあるが、この場合も、系助詞は後に来らなければならない。

      (38)       ÉÉ子どもなるがゆえにこそ、ことばは複雑でありまた豊かな                               ヴァラェティに富む。(ことば53ペ)

次の例のようなものは、複合系助詞に入れるべきであろうが、これは、格助詞と系助詞とが重なった「では」という形式と置換えることができる。

      (39)       最近の認知心理学が明らかにしたところによると、子どもが筆賛によ                    る足し賛や引き算を学習するばあいもÉÉ(コンピュータ34ペ)

      (40)       最近の認知心理学が明らかにしたところでは、子どもが筆賛によ                る足し賛や引き算を学習するばあいもÉÉ

「による」は、関係構成と取り立てとが融合した意味を表わしているわけであるが、これは助詞が相互承接しただけの形式には見られないものである。この種のものは、条件系の助詞に数多く見いだすことができる。

本稿では、複合助詞が助詞と同じような機能を持ちながらも、助詞によっては表しえない意味や、助詞の持ちえない構文的機能を発揮することを見てきた。複合助詞、複合接続助詞など、個々のグループの複合助詞については興味深い問題が多く挙げられるが、その点については別稿に譲ることにし、以下、紙幅の許す限り、各グループの用例を挙げておくことにしたい10)



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[2]           

 

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